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日芸文芸学科の詩の授業――「詩歌論」「現代詩研究」の歴史――

                                   山下洪文

 詩は傷痕から流れる血のようなものだ。小説は幾つもの血のゆくえを辿るもの、批評は血にうつる面影に語りかけるものと言えるだろう。しかし詩こそは、それらすべての原液なのだ。

「小説を読まれるのが恥ずかしい」「批評を読まれるのが恥ずかしい」という学生は、あまりいない。しかし、「詩を読まれるのが恥ずかしい」という言葉は、耳にタコができるほど聞いてきた。それは、詩こそが実存のどん底を、心の内臓を白日に晒すものだからだろう。

 恥ずかしくない詩など、そもそも「詩」の名に値しない。詩という地平においては、恥ずかしく、おぞましくもある情念さえ、美しいと言いうるのだ。

 本稿は、「日藝の詩」がどのように教えられ、書かれてきたかを辿るとともに、現在開講されている「詩歌論」「現代詩研究」の授業風景も紹介したいと思う。人間性の根幹にかかわる「詩」を、日藝はどう教えてきたのか。手に入れられた限りでの、当時の「講座内容」を参照しつつ、辿っていこう。

 一九七〇(昭和四十五)年の「詩歌論」講座内容は、以下のとおりである。担当は神保光太郎。

「日本の詩と西洋(特にドイツ)との詩の比較研究。/日本伝統の短歌や俳句から明治以降の近代詩の展開を、欧米特にドイツ詩の流れを対照して考察する。/テキスト 『ドイツ詩集』(白鳳社)」

 一九七三(昭和四十八)年には、つぎのように変化する。

「一見、混沌を極めているかと思われる現代詩の状況を前にして、「詩とは何か」の問題の解決の一助として、日本近代詩の歴史的展開を、ドイツその他の国の詩歌の流れとその在りかたとに対照しながら、追求しようと考える。」

「研究」「歴史」といった硬質な言葉に、「詩とは何か」という問いが混じってきている。この年は、五藤勉『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになるなど、「終末論」ブームの真っ盛りであった。「終わり」の予感を意識しつつ、学問に取り入れ、「言葉」を追求する姿勢が垣間見える。

「詩歌論」は一九八一(昭和五十六)年から、童話研究や歴史小説で名を残す浜野卓也が担当する。最初の「講座内容」は以下のとおり。

「詩とは、ある時代の、ある個性による認識の一形態である。/日本近代詩は、日本の近代史とのかかわりの中で展開してきた。この見地で、近代詩人たちの作品のふれ、その〝生〟の苦悩をさぐっていきたい。」

「史」と「詩」をリンクして考える姿勢が見える。翌年から、「世界文学」に現代詩を位置づける、巨視的視点が出てくる。

「昭和3年『詩と詩論』の刊行は、明治・大正をへてようやく世界文学の一環(同時性)の中での文学運動の出発と見ることができる。大正民衆詩運動と、プロレタリア詩運動のはざまにあり、しかも戦後詩にも、深くかかわっているが、本年は、そこから出発した三好達治、西脇順三郎、吉田一穂ら個性ある詩風の、それぞれのオリジナリティーを比較研究していくことで現代詩とは何かを探求したい。」

 ちなみに、「本年は」とあるが、以降この講座内容は変更されていない。二〇〇一(平成十三)年、バトンは歌人・福島泰樹に手渡される。学究的だった「詩歌論」は、創作の方向へと舵を切る。

「60年安保闘争の暮に敗北死した学生歌人岸上大作。「私とは誰か?」から出発した寺山修司。放浪詩人サトル。近代の闇黒を背負い憤死した石川啄木。そして宮沢賢治、伊東静雄、中原中也、立原道造、彼ら夭折詩人の実存と詩の真実を探る。絶叫コンサートも観てもらう。」

 神保の時期にあった「詩とは何か」という問いが、「私とは誰か」に変わっている。学問的探究から、実存的問いかけへ……翌年、焦点はさらに絞られる。

「「私とは誰か?」から出発した寺山修司、近代の闇を背負い憤死した石川啄木、悲しき歩行者中原中也など、彼ら詩人の生き様と詩作品を通して、詩の真実と実存を問う。朗読、短歌実作の指導、絶叫コンサートも観てもらう。」

「詩人の実存と詩の真実」が、「詩の真実と実存」に、「探る」が「問う」に変化している。生身で「詩」にぶつかる姿勢が重視されていることがわかる。

 岸上大作・寺山修司ら現代歌人と、立原道造・伊東静雄ら四季派の詩人が、とり合わされている点も注目される。「創造」という地平において、時代背景の違いなど些細なものだ、ということだろう。

「詩歌論」が創作寄りの授業に変わった理由として、二〇〇二(平成十四)年に開講された、中村文昭担当の「現代詩研究」の存在があっただろう。初年度の講座内容を引く。

「詩であれ小説であれ、文学創造の根本素材は《言語》である。この場合の《言語》とは、日本語(国語)のことであり、その素材との葛藤抜きには本の近代詩、近代小説の成立はない。自明の理としての日本語をポエジーの基で研究・創作する。テキスト『現代詩研究』その他」

 中村文昭編『現代詩研究』は、明治篇・大正篇・昭和篇・現代篇の全四冊の大著である。中村の言語論に、各時代の代表作のアンソロジーが付された、詩の入門書としても優れた著作だ。「本の近代詩」とあるが、これは「日本」の誤植で、翌年から修正されている。しかし言葉の「初原」を求める授業として、粋な誤りと言うべきだろう。なお中村は、福島退任後の二年間、「詩歌論」も担当している。

「詩歌論」「現代詩研究」は、(僭越ながら)現在は私が担当している。前者は詩の創作を、後者は歴史・理論を重視した授業にしている。講座内容を以下に引く。

「詩とは、傷痕から流れ出る血のようなものだ。なぜ血を流さねばならなかったか、流れた血が何処へゆくのかを考えるのが「批評」である。詩の実作と討議をとおして、私たちの生存の意味を探る。」(詩歌論)

「詩は世界創造であり、批評は世界解釈である。そのどちらが欠けても、「世界」は空虚なものとなる。詩(創作、創造)と批評(哲学、思想)をともに学び、「自己」を深め、「世界」に繋がる手がかりを探す。」(現代詩研究)

 二つの授業は、コロナ禍のなかで手渡された。まことに苦難の連続であったが、自分より才能のある学生に出逢うほど、幸せなことはない。授業に提出された作品の、一部を引く。

 

  わたしの花ばなで

  あなたの傷をうつくしくふさぎたかった

  届かなかった無数の花のなかへ身を投げ出し

  わたしはむらさきに溺れた

  (略)

  わたしの花びらがいちめんに散りしいている

  悲哀の浜に

  母さん

  娘だったころのあなたが

  夜明け前のひかりとともにわらっていたのだ(内藤翼「花の浜辺」)

 

  あなたのみずうみの底で

  わたしをつなぐ緒が首にからみつき

  やがてあなたもたくさんの管に

  むすばれて

  とけて

  ふたりで凪いだみずうみになれば

  母であり子であることの苦しみは

  けして知らずにすむであろうし

  わたしたちを絞めたたくさんの血の絆しも

  光輪となってかがやくかもしれないのだ(同「聖母子」)

 

  彼女は数回みじろぎし、

  子宮のかたちにそっくり沿い、

  そうしてずるりと這い出で、

  じぶんのかたちがうしなわれたことへ、白んで粘着質な涙を流し、

  そうして様々の液体に干し草をまとわりつかせて、

  さめざめ泣く

 

  わたしは馬をみている

  傷ついた仔馬の

  もがく胎児だった馬の

  うめいてもがく悲痛のさまを

  ただじっと

  畜舎の天井の隅の斜めの角からみている(島畑まこと「牝馬」)

 

  見わたすかぎりの砂の海でした

  砂漠にちいさな一粒の砂利がありました

  本当にちいさな水色の石でした

  燃えきった私の海でした

  心もとない海でした

  でもこの石は誰にも渡さないのです(宇野有輝恵「砂利」)

 

  私はひとつの血液として流れ出すとともに

  大地の亀裂の深くまで浸透し、潜ってゆく

  (略)

  岩の間になだれて波は渦巻く

  白い泡がたちあがる

  私は擦り切れていく

  夜だ

 

  太陽の終わりを祝福する吹雪だ(同「血の泉」)

 

  会いたいな、逢いたいな

  想いは円城の虹を

  キミへ

 

  でもいい

  僕とキミはいつだって繋がらざるをえないから

  漠然としたこの今にほら、僕たちが

  個が、うまれる(松本幸大「ロノハ」)

 

  知っていますか

  空もことばでできています

  僕らが見ているすべては

  僕らを救い得るものではないのです

 

  知っていますか

  星には配列があります

  どんなに美しくても

  僕らを逃さないための枠組みなのです

  (略)

  そうです結局は

  ことばにし続けるしかないのです

  これがひかりだと言えるものが生まれるまで(中山寛太「後日譚」)

  わたしは雨にうたれることも

  あなたの穢れになることもできず

  傘をもって見つめている

  (略)

  押し流されたことばがふかく突き刺さる

  きらめくあなたの足跡を

  追うようにして あかく濁らせた(田口愛理「雨」)

 

  暗視の嘴よ、わたしの盃で休まれよ

  滑らかにはみ出す空の色を答えよ

  末端の痺れに波うたせ、空の破れ目のみどりを舐めろ(古川慧成「鳥葬」)

 

 これらの作品は、現代詩の最前線とされる地点よりも、はるかに先を望んでいる。驚いたことに、彼らのほとんどは、これが初めての詩作だという。まことに、日藝生のポテンシャルや恐るべしである。漢の武帝は、「才能ある者はいつの時代も必ずいる。ただ上に立つ者が見抜けないだけだ」と言う。教師として、子供たちの才能を見抜けるか否かが、日本文学の流れにも影響を及ぼしてゆく。その重圧のなかで、授業をする喜びは格別である。

 ここに挙げた詩篇の完全版は、近刊予定の『実存文学』創刊号に(さらに多くの作品を含め)収録する予定である。「歴史の終わり」「文学の終わり」が語られて久しい。「終わり」であることに居直ることなく、この地に新たな「始まり」を、私たちは刻みつけねばならない。『実存文学』はその一里塚にしたいと思っている。

 歴史にうつくしい傷痕をつけること、そのためにも、絶えず対話の回路を切り開いてゆくことが、「日藝魂」だと思う。歴史が文学を忘れたのなら、歴史を思い切り引っぱたいて、思い出させればよいのである。その手助けを、今後もでき得るかぎりしたいと思っている。

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