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​実存文学研究会について

                                    山下洪文

 文学は、ある映画のタイトルを借りれば、「狂熱の孤独」だと思います。「孤独」とは「ひとり」であること、他者と交わらないことですから、「熱」を誰かに伝えることは本来できません。

 文学はしかし、孤独から生れるものでありながら、他者に熱をあたえます。「ひとり」が生んだものなのに、「みんな」に影響を及ぼします。文学は孤独であり、他者から切り離された営為ですが、それゆえに他者を根底から揺さぶりうるのです。

 コロナ禍は、深い虚しさや悲しさを私たちにあたえつづけています。しかし喪失を価値に転化しうるのは、文学しかないと思います。

 鮎川信夫・吉本隆明ら荒地派の詩人は、すべてを――家族も友人も、信じてきた考えも感性も、何もかもを――失う体験から、あれだけの言葉を生み出しました。文学こそが、無から言葉を取り出し、生の息吹きを生むのではないでしょうか。コロナ禍は虚しい喪失の体験かもしれませんが、原体験とも言うべき虚しさと喪失を持ち得たことを自覚し、これを創作と批評に生かしたい、と私たちは考えました。

 

 実存文学研究会は、この痛みと光から――否、痛みしか光と呼びえないような場所から出発しました。当初、山下洪文(日本大学芸術学部文芸学科助教)・中田凱也(令和二年度文芸学科卒業生。現在、日本大学豊山中学校・高等学校講師)・舟橋令偉(令和二年度文芸学科卒業生。現在、日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻在籍)の三人から始まり、日藝の卒業生・学生を集め、いまは十数人体制で歴史的資料の発掘・翻刻、共同討議、執筆活動に励んでいます。

 二〇二二年二月、学術叢書『実存文学』を創刊しました。数々の貴重な資料に、二十一世紀文学のありかを示す論考・創作を惜しみなく盛り込んだ結果、八百頁近い大著となりました。

 

 先人の言葉を翻刻するだけなら、「古記録」にすぎないでしょう。それが「古典」であるためには、古典と向き合う現代人の情熱が不可欠です。

 荒地を、実存をよみがえらせるには、「復刻」だけでは足りないということです。私たちは彼らの息吹きにふれねばなりませんし、彼らの言葉を私たちの息吹きにさらさねばなりません。彼らの実存のあり方を学ぶとともに、私たちの実存を示していかねばならない、と思うのです。

 詩人・哲学者の未発表小説や単行本未収録作を翻刻し、論じるだけでなく、創作も重視するのは、それが理由です。実存の業火にただ圧倒されるのではなく、私たちの炎をそこに投げ込まねばならない、創造の歴史に参加しなければならない、と考えたのです。

 かつて私は、『夢と戦争』という本のあとがきに、「新たなる〈始原〉」という言葉を書きました。新しい原郷、人々が帰っていくことのできる言葉、真の二十一世紀文学は、ここに始まると信じています。

「実存文学」は、矛盾した言葉と言えるでしょう。文学が自己の根源(実存)から生れるものとすれば、すべての文学は実存文学だからです。それでも私たちがみずからにこの名をあたえたのは、現代が底深く実存を喪失したからであり、こうあるべきと信じられる芸術のすがたが、何処にも見当たらなかったからです。

 実存を、この「私」を語ることは、時代遅れであるどころか、人間不在・文学不在のいま、喫緊の課題だと思います。

 私たちは未だに実存を欲している、たとえ実存のもとに見た世界が、寒々しいものだったとしても、構造の春を超えて、実存の炎のなかに立ちたい、と真剣に思っているのです。

 

 詩とは世界を殺すいとしい凶器であり、世界は変えられずとも世界観を変えられるものであり、私たちの生存を、ほんのいくばくかは美しくしてくれるものだと思います。その詩がいま滅びつつあるのだとしたら、私たちは不器用にでも言葉を紡がなければならないのではないでしょうか。歴史が実存を捨てたのなら、もう一度実存の産声をあげなければならないし、文学を忘れたのなら、歴史をひっぱたいて思い出させなければなりません。

 文学の死が告げられた現代において、私たちは神のように重い死骸を抱いて、歩き始めました。この先に歴史という大河があることを、そこに私たちの愛する先人を初めとする、実存を生きた人々が待っていることを信じて。

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