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2022年6月11日 − 日本大学芸術学部西棟5F「I研究室」にて

 日録を書くまでに日が空いてしまったため、当日のメモと研究会メンバーの証言を元に合評の様子を記録する。


 舟橋くんは「亡骸」を発表したが、詩の出来栄えに納得していない様子だった。「特有の美的感覚と、彼が直面している問題が見える詩」「詩が終わったあとに詩世界に残り続けるあなたと私を描いている」という評価であった。

「あなた」の美しさを写す器になってしまってはいけない。なぜなら、それは美しさに自分は不要ということになってしまうからだ。また、詩の美しさとは、必ずしも他者の傷と響き合うわけではない。という意見もあった。

 正村くんの詩は「ときの花」と「怜悧」の二編であった。彼は推敲を重ねて、この詩を完成させたが、山下先生は「詩は推敲を前提として書くべきではない。一行目から、絶対的な確信と、内的必然性によって書かれるべきだ」ということをおっしゃった。

「正村くんは、詩を書いていない時も「詩人」と呼ばれたいのではないか」という意見もあった。その話の中で彼は、「詩を書いていないと不安になり、自分は詩人ではないのかもという焦りが詩を生む」と発言した。何を言っても面白く、それが正解になってしまうような、根っからの「詩人」と呼べる人間はいるが、正村くんはそうではないことを自覚しているのだろう。

 古川くんはこの日初めて勉強会に参加し、「半身の検閲」「午」の二編を発表した。彼の詩には肉体のある「あなた(母)」がいるはずなのに、奇妙な「孤独感」を感じる。「半身」とは、生まれ分たれた肉体のことであり、言葉によって分裂してゆく自己である。人間は母の「半身」として生まれるため、母でない女性(別の半身)を求めることを「あなた」は赦さない。真髄を掴めそうで掴めない、しかし強く共鳴する。そんな詩であった。「より深い共鳴は「孤独の深さ」から生まれるものである」という評価もあった。

 内藤くんの詩は「胞子の家」であった。以前、彼の詩を読んだ学生が「俺にはこんなこと書けない」と泣いたことがあったらしい。そのように彼は、詩の言葉において暴力的なまでの感動を与える才能を持っている。それは、彼に他者の傷を細分化する能力があるからだと考察された。他者に傷だらけの虚無を鮮明に見せつけることで、自己の傷と直面させる。この詩は「感動」をせざるをえない、「感動」することしかできないのではないか、という意見があった。詩作とは「生きられない」世界で、同じく「生きられない」人を慰めるものでもある。彼は「胞子の家」で、「生きられない」世界を操ることができていて、詩人として生きられている。「ある意味終わりのない「救済」を諦めて逃げてしまったのかもしれない」という意見もあった。

 私は「廃校」という詩を発表した。山下先生からは「「詩的言語」さえ届かない人に向けられた詩」と、評価をいただいた。この時、私の詩作が、自らに「救い」をもたらすためのものから、目の前の「あなた」への「救い」を見つけるためのものに、徐々に変わっていることを自覚した。

 私が目の前の「あなた」を救いたいと思うようになったのは、教師という職業に就いたことが、少なからず影響している。しかし、私が教壇に立ってもよいのか、私が「あなた」を救うための詩を書いてよいのか、という不安は常にある。教育者であることが演技的なものなのか、本質的なものなのかは、詩作を続けなければわからない。

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