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第十四回研究会(文学と生活)

2022年11月12日(土)


 私の詩は冗長だ。息の転回に身を委ねているというべきか放漫というべきか、後者かもしれない。この度の勉強会では、私の「橋頭」と、真反対に磨きあげられた詩を書く中田さんの「灯の翳」の二篇を扱うこととなった。

 詩のなかで私は歩いている。「普通だったら三、四篇になる量」と指摘されるほど、私の詩は長い。歩き、事件やイメージがあり、また歩く。すると新たな場面と出会う。これを幾度か繰り返したのち、言いたいことを言ったなと感じたらば自然と結末が訪れる。

 これは奇妙なことらしい。私とて短い詩に憧れはあるが、削ろうと意識しすぎるとどうしてもリズムがのらない。歩きはじめたのは、詩が書けなくなって、どうにか書こうと試しているときにふと浮かんだもので、以来この方法を下敷きにしてきた。非常に印象的なこと、書きたい言葉、景色、これらをプロットを組むように配置し、映像を見てゆくように書き進める。無論、なにもかも事前に構築するのではなく、いわば経由地を意識しておいて、あとは意識のゆくままに歩く。邪道といえば邪道だ。

 このところは事前に用意はしつつも、さほど設計せずにぶっつけ本番で書いてみている。いずれにせよ、歩いていることに変わりはない。この試行でリズムがよくなった反面、ますます冗長さを増したきらいが否めない。

 私は「あなた」は誰だ、という根本からしてわからない。ようやく輪郭らしきものが見えつつあるが、「あなた」を探す、つまりあるはずなのに断定できない傷を探す修行の道は心もとない。さまざま想定されるものを代入しては、何割かはこれだなとか、これではなかったなとか、一つひとつ整理してゆかないといけない。一般的な詩人のように、「あなた」が端から存在してはいない。だから、「あなた」になにかしてあげたいといった感情は乏しく、「あなたらしきもの」への怒りや憎しみや無力を、書いているつもりだ。

 一方で中田さんは、「詩を書くときだけ詩人になれる」というように、「救済」を厳しく模索している。言葉は切り詰められている。私の詩に定型とは異なったリズムがあるなら、中田さんの詩にもごくごく短かななかにリズムがある。心地よさと、リノリウムの床のような、硬質な感動とがある。私にはつるつるしていて掴みどころがなくて、いつも読解に苦労するのだが、読解以前の直感で、うまく言語化のできないよさを覚える。

 救済という語が、「灯の翳」を検討している際に頻出した。ことに、「自己救済と他者救済」を中田さんは折に触れて意識しているという。この概念は私にはあまりよく理解はできないのだが、しかるに詩を読むと、たしかに救済の意志を感じる。直接の言葉以前に、感覚として思いが通じるたいへん興味深い例だ。わからない人にまで伝わる。原初のパッションがイメージそして言葉へと変成して結晶化したものが詩だが、まさに言語以前の領域で響き合う域に中田さんの詩はあるといえよう。

 翻って私の詩は、述べたように書き方からして冗長まっしぐらなので、平明な言葉として多くの人に意図を伝えることはできるように思う。わかりやすさ見えやすさを捨てたくないという、詩を書きはじめた高校のときからのこだわりが抜けていないせいもあろうが、えてして安直に流れる。

 中田さんの合評の際、同じく多用されたのが、「安易でない」だった。ストイックで清潔。かたや私はごつごつとして原始的。この書き方が書きながら心地よいのでそうしているまでだが、安直さを孕みやすい点は気をつけなければならない。

 イメージのストックの組み合わせということは、見たもの感じたことの再解釈なのだから、悪意をもてば、とるに足らないことや手垢のついた物事まで素材にできうるということになる。わかりやすくキャッチーなものを利用すれば楽なのは違いない。けれども、決然と、必然性あるパッションを詩にしたい。今回発表した「橋頭」はここでミソをつけた。

 現実の時間に縛られ、あまりに時間がないから大急ぎで書いたところ、せっかく第一連までは歩く手法に自分なりの改良を加えて詩になっていたものが、二連からはやっつけ仕事になった。書いているときには自覚がなかったものの、合評での指摘をもとに見返せば、なるほど不用意であったり安直であったりする箇所がまま見られた。この詩はその後何度も改稿した末、ついぞ納得のいく形にならぬままとなった。成功した部分と失敗した全体との落差が大きく、反省している。

 歩く、歩く、と繰り返し垂れてきたが、いつまでも同じ手癖でいるのはよろしくない。当然、「歩く」ことについて考えることになった。私は本当に歩いているのか。

 思えば歩いたり、座り込んだり、飛び跳ねたり千鳥足で潰れたり、くさぐさの進み方停滞の仕方がある。これを取り入れられないか。私は本当にいつも歩いていたのか。サボっていたことも多々あったではないか。安直に歩くだけでよいのか。

 さらに、歩くだけでなく私の詩を特徴づけるのが、「自然」だ。北海道に生まれ育ち、自然のなかで遊んで寝て鬱屈して上京したのだが、執拗に自然の情景を描くけれどもこれは自然なのか。本当の意味の自然に触れられていないのではないか。では本当の自然とはなにか。そんなものあるのか。嘘か。

 この勉強会のあと、論文の執筆や新作の構想を通して、私の根幹を揺るがしかねない問題が相当数浮上した。「自然」「時間」「歩く」「パンチライン」「背伸び」「性」「姓」「世間」「形而下」など、とても単純に歩くだけでは解決できない。常に私は詩を試作するつもりで、なにかしら試しながら書いているのだが、これらを一挙に混ぜ込んだ次回作は、新たな境地を拓けた一方でリズムに無理が生じた。テーマの盛り込みすぎで、それぞれの掘り下げの不徹底も招いた。これらの反省は次回の日録に譲るとして、私の甘さを叩き直さないといけない時期に来ている。

 そもそもなぜ文学をやるのか。押しつぶされる、無能、無力。私は詩人と呼ばれたいだけではないか。現代の詩はつまらないが、詩によって現代を引き受けなければならない。古人の糟粕を嘗めるのではいけない。文学と生活をどう解釈してどう折り合わせるか。詩など書かなくとも生きてゆけるのではないか。夢、故郷、血脈。問いは取り組む側から殖えてゆく。眼前にあらゆるヒントはあるはずだ。これからも私なりに、向き合う。裏切らないために。しかし、わからなくなる。わからなくて、無力で、私の詩よろしくこの日録も冗長になっている。

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