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第十五回研究会(受肉の過程、言葉による自己解体)

2023年2月25日(土)


 今後にむけての話し合いの後、久しぶりに詩の合評をした。中田さん、舟橋さん、島畑さん、古川くんが作品を持ち寄った。

 

 古川くんの作は、「言葉の暗闇 ――朝日と夕日に挟まれて――」と題されていた。

手がかりはあるが、一読してすぐに何かが出てくるわけではない。他の人の意見を聴いているうちに少しずつ輪郭が掴めてくる。それが、ぼくなりの古川くんの詩の印象である。

ただ、今回はいつもより早く詩に触れた感じがあった。自分の読解力・批評力ではなくて、古川くんの詩のほうに変化があった。

 舟橋さんは、古川くんの従来の作品をトルソー(胸像)にたとえた。読者がトルソーの手足となる、そこにエロティシズムが生じていたと言った。古川くんの詩にある不可解さをぼくたちが解きほぐそうとする過程での合一感を指すのだろうか。だが今作になって胸像に手足が生えてきた、と舟橋さんは続けた。自立しはじめたことで幾らか分かりやすくなってきた、ということだった。

 島畑さんの印象では、この詩は受肉の過程であった。胸像に手は生えてきたが、足がない。足がないのに「あなた」を追おうとしているところに焦燥感がある、と評した。

 

 聞いていて、古川くんが前に黒板に描いた絵を思い出した。裸像だったが、顔がなかった。顔が描けないんですよね、と言っていた。自分でも自分の詩が分からない、とも話していた。絵であるにせよ詩であるにせよ、産みだしたものがどんな「顔」をしているか判然としない。

 肉体が生じてきた、というふたりの指摘には頷くところがあった。身体ができて、自分が何ものなのか、どこにいるのかがわかりつつある。暗闇が晴れてきつつある。

 だが、この詩にはまだ時間が欠けている。冒頭の、「座標の落としもの」という箇所にもそれがあらわれている。「座標」とは位置(どこ)をしめすもので、時間(いつ)をしめすものではない。「座標の落しもの」、座標からこぼれ落ちたものとは、時間のことではないのか。

「朝日」「夕日」「午(まひる)」「記憶」「夢」……時間に近しい言葉は登場するが、どれも流れを失っている。記憶は過去のものだ。夢は、これまでに見聞きし感じてきたものの集積である。タイトルの、「朝日と夕日に挟まれて」がしめすものは「午」であろうけれども、ほんらいこの三つは分割できるものではない。昼夜が生じるのは、地球の自転という流れがあるからだ。

 古川くんの詩には、「午」が頻出する。ぼくはこの「午」から、雲一つない、黒みがかったような青空を思いうかべる。見上げていて、すこし怖いようである。「午」がどこまでもどこまでも続いているから、どこにも行けないような気がする。

 より具体的にいえば、今回の詩には「明日」がないと思ったのだ。「明日を風に返したあなたのために、幸福が俺のこころを食っている」という一文が、それを証づけているだろう。「あなた」は「風」という流れに「明日」――時間の流れを「返し」てしまった。そのために「あなた」も自分も、時間のない、どこまでも続く地平のなかに閉じこめられている。「あなた」を探そうにも、どこにいるかわからない……そんな詩ではないかと思った。

「幸福が時を告げる鐘を撞く」とこの詩にはある。だがその「幸福」は詩中の言葉を借りれば、「みなし児たちを落果」させ「俺のこころを食」うものだという。

「あなた」と出会うことで「幸福」が、時間がおとずれるのかもしれない。しかし、孤児たちは地に落ちる。たんに時間をとりもどせばよいというわけではなさそうである。

 

 

 続いて、中田さんの「週末」「聖夜」を合評した。中田さんの詩は、ぼくにとっていつも遠い。良いことはわかる。言葉が彫琢されている。だが、古川くんの詩よりももっと読めない。山下先生や舟橋さんの話を聞いて、そうなのかあ、と思うのが関の山である。前回の日録にあった、正村くんの感覚に近い。「リノリウムの床」は、ぼくも思いうかべるものだ。

 しかし今回は、中田さんの朗読を聴いている段階から、わかると思った。ぼくの抱いている問題意識に近しいものが描かれていると感じたからだった。二篇をとおして、「あなた」のいない世界が表出されていた。

「週末」の一連目にある「私は懐かしい/あなたの旋律を聴く」が、この詩の内部をもっとも率直にあらわしている。「あなた」は「懐かしい」ものとなってしまって、すでにここにはいないのだ。

「褪せた手のひら」――「あなた」と繋がれるはずだった手――、群れから「逸れた椋鳥」、「忘れられた贈り物」。二連目、三連目も、不在の感覚が続いている。

 

「聖夜」はそのタイトルからも明らかだろう。キリスト者の人たちにとって、大いなる「あなた」であるキリストの誕生を祝うための日である。そうでなくとも、家族や恋人、身近な「あなた」と共に過ごす日である。プレゼントを送ったり、もらえたりする日でもある。

 この詩では「あなた」のかわりに、「貴方」が登場する。「あなた」のいない「貴方」である。「魘され」ているし、「瞼」が「閉じられない」。孤独に苦しみ、眠れずにいる。そういう「貴方」へむけての詩であった。

 

 ここまでで何度、「あなた」と書いたかわからない。ぼくたちがこの概念について、これほどまでに考えるのはなぜなのか。詩だと書けるから、というのが、いちばん単純な答えだろう。小説だと、すこし書きにくい。二人称(「あなたは~した」というような書きかた)の小説が少ないことを考えてみれば、掴みやすいのではないかと思う。文学のかたちを借りた、ひとつの手紙といってもいいのかもしれない。

 だが、ひとこと「あなた」といっても、その含む意味はひとりひとり異なっているようである。山下先生は『実存文学Ⅱ』の後記に「私たちは、私たち自身を見つけるために「あなた」を創造します」と書いている。「あなた」=「私」の図式である。

 他の研究会員にとってはどうか。舟橋さんにとっては、中田さんにとっては、島畑さん、加藤さん、田口さんにとってはどうか。古川くんは「あなた」の輪郭が判然としていないようだ。正村くんは、そもそも自分には「あなた」がいないんじゃないかと思っている、と話してくれた。

 

 中田さんは「あなた」が詩のなかだけではなく、生きることにおいて必要だと考えているからこそ、「週末」「聖夜」二篇を書いたのだと思う。生きるうえで、思いを托せるような「あなた」がいるほうが、間違いなく幸福である。今が、山下先生の言葉をかりれば「傷痕が見えない、「あなた」と呼びかけられない」ものであることもわかる。現代がとても空虚で透明だという感覚は、誰しももっているのではないか。

 中田さんはふだん教員として、こうした時代に生まれた(時代を背負ってしまった)子どもたちと日々向きあっている。どうにかしなければ、という切実な思いは、ぼくなどの比ではないはずだ。

 

 そうした思いで書かれた詩が、遠い、と感じるのはどうしてなのか。「リノリウムの床」のたとえに戻るが、ぼくはいつも中田さんの詩に、白い光に満ちた清潔な部屋を思いうかべる。と同時に、ある種のもやもやを抱く。合評会でぼくは、それを「ひがみ根性」と言ったが、この数日の間でもその正体がよりはっきりしてきた。

 中田さんの詩が放っている白い光は、読む人間の心さえも照らしている。すると、ぼくには自分の傷だらけの手が、自分のぐちゃぐちゃの部屋が見える。そこで叩かれたり土下座したり泣いたりしていた人生を振り返り、一方の凛とした部屋と比べてみると、このように生きたいと思っても生きられなかった自分への、惨めさとさびしさを感じずにはおれないのである。

 前にぼくが「死の現場」という詩を書いたとき――これは何とかして自分のいる部屋を書かなければと試みて失敗した作品であったが――中田さんは、「内藤くんの黒い部屋に僕は入れない。わからない」と仰った。ぼくは「やっぱり、それぞれの生きてきた文脈がありますから……」と返したように記憶している。

 

 先生は中田さんの詩を、「みんなの故郷になれる」と評したそうだが、ぼくはそうとは思わない。美の間口は広いが、しかし、やはりそこから弾かれたような感覚を持つ人もいるのではないか。「持っている」ものの、持たざるものに対する詩である。

 持たざるものの詩(文学)を、持たざるものとしてどう書くか。ぐちゃぐちゃの部屋に住んで、傷だらけの手を持ちながらも、どうにかそこを掃除して日々を生きようとしている人生を、「あなた」のいない人生をどう主体的に書くか。美しいとは言えないが、だが決して無意味ではなく「何か」ではある、そういう生涯に深く頷くことのできるような批評と創作をすることも重要だと感じている。

 

 

 舟橋さんの「惜別」については、ご本人が「いいよ、いいよ」という感じであったので、わりあい合評の時間は短かった。

 問題になったのは、「雨だれに人生を失いしとき」と「藍染めのこの命」の二行であった。「雨だれに……」には、風景の遮断がある。カーテンをしめて、部屋に閉じこもっているような印象をうける。「暗い雪景色をさしふさぎて」とも書いてある。部屋のなかで「美と心」を「象嵌」し、「銀色の幽霊と永遠に接吻する」。観念の世界に生きている。

「藍染めのこの命」は、ほんらい固有の色があるはずの「この命」を「藍染め」に変えてしまっているのではないか、という点が疑問視された。悲しみや苦しみの色に染められてしまった、いわば「汚れつちまつた悲しみ」をうたっているわけでもなさそうなのである。

 今作は古語を用いて書かれていて、ご本人によれば「一種の幼児退行」とのことであった。美のゆりかごに入って安らいでいるというよりも、嫌だ嫌だと叫んでいるような感じがした。

 

 舟橋さんの詩は、「あなた」や「君」、うたうべき他者が登場するとみずみずしくなる。『実存文学Ⅱ』におさめられた「バス停」のなかの、

「真白に束ねられた哀しい夜の街灯は/僕たちが美しく永遠を閉ざすための/藍色のインクがにじむ冬の手記であった」

 この三行からあふれる苦しいほどの抒情と、今回の「藍染め」とでは、同じ藍色でもまったく違う。「バス停」には「僕たち」がいて、心がしんから藍色になっている。私たちは、私たち自身を見つけるために「あなた」を創造します」という先生の言葉が、舟橋さんには深く当てはまる。「あなた」を必要とする、そのある種のどうしようもなさ、弱さが舟橋さんの詩の魅力だとぼくは思っている。

 

 

 最後に島畑さんの「四肢」「海鳥」「雑踏」「絵のない美術館」を取り扱った。島畑さんは、書けそうだなと感じたときに一気に数篇の詩を書いてくる。

 一連の作品を読んでみて、肌がぞわぞわした。外の空気をあびたい気持ちになった。怖いな、と思うと同時に、島畑さんのことが心配になった。みな、だいたい同じものを感じとったようである。

 まず先生が、トラウマを抱えた女性詩人の書く詩の傾向を、現実や肉体の徹底的な否定と、現実からの遊離とに分類した。前者の代表例は、最果タヒにも影響を与えた詩人・安川奈緒であるという。後者には征矢泰子や、『ダロウェイ夫人』などで知られるイギリスの作家・ヴァージニア・ウルフなどが当てはまるとした。問題なのは、例示した四人のうち、最果タヒを除く三人が自殺していることである。

 続いて先生は、今回の島畑さんの詩から形象が消えていることを指摘した。これまでは自分の傷や痛みを「牝馬」や「かもめ」などの形に託せていたが、いまや自分の「ばらばらになった四肢」(「四肢」)を直接書くようになっている。先生のこれまでさまざまな詩人を見てきた経験からすると、これは危ない兆しのようだった。

 四つの詩篇はどれも小説の描写のようで、行分けする必要がないのではないかと一読してぼくは疑問を抱いたが、原因は先生がおっしゃるところの形象の消失にあるのかもしれない。

 色々なものが欠けているし、身体性が徹底的に凌辱されている。「四肢」は「ばらばら」の宙吊りで、「指先」は「内部から/飴色に/光っている」。肉は「黒いゴム」で、胴体の中心には「深い虚」がある。

 続く「海鳥」では、自然さえいきいきとした感じを奪われている。海は「灰色の/溶けたガラス」のようで、上空には「つくりものじみた雲」がかかっている。「かもめ」は「板張りの空」にぶつかって「ガラスの海」に落ちていく。

 海が「ガラス」にたとえられているところにも、危うさがあると先生は見ていた。

 母なる海、とよくいうように、海はふるさとであり、「あなた」以前(「わたし」と「あなた」が分離していない、お母さんのお腹のなかの赤んぼうのように安心した状態)の象徴である。ところがそれが、自他の境界線(隔たり)である「ガラス」になってしまっている。どこにも安らぎのない、すべてを否定するよりほかない状態だと先生は感じたのであろうか。

 

 三作目の「雑踏」では「中央広場」「駅のプラットホーム」「人混み」といった、現代における無名性(何者でもない、価値がないような感じ)の象徴が描かれる。

 そして最後の「絵のない美術館」になると、タイトルの通り、すべてが消失してしまうのである。「なにも飾っていない額縁が/白い壁に/ずらりと並んでいる」だけなのだ。風景画(自然)も肖像画(人間)もない。「わたし」がその「ひとつひとつを眺め」ながら歩いていると、やがて二つの「赤い扉」が見えてくる。この扉は絶対に開けてはならないものだと思った。島畑さんの詩に書かれているものよりもずっと恐ろしい、見たら気がふれてしまうような何かがある。ぼくはこの正体を分析しようとは思わない。何も入っていない額縁のあいだに赤い扉がある光景を想像するだけで怖いからだ。詩を読んで怖いと思ったのは初めてだった。

 

 加藤さんは、はじめから島畑さんの書く詩を怖いと思っていたようである。彼女いわく、島畑さんは言葉によって自分に手足をつけている印象があるという。同時に言葉は自己を解体するものでもある。島畑さんには、言葉による自己解体を経てもなお残る「己」(核のようなものだろうか)が見えない。だから怖いという。かなり痛烈な批評である。加藤さんは一貫して、書いている人の存在が掴める詩が好きだと主張してきた。

 言葉によって手足をつける……思い出すのは、島畑さんの古川くんの詩に対する「胸像に手は生えているが足がない感じ」との感想である。彼女の作品には、ずばり「もう存在しないつま先」という詩句がある。つまり自己紹介であったわけだ。

 古川くんが受肉の過程だとしたら、島畑さんは逆だろう。もう肉体がばらばらになって、穴があいたり透けたりしている状態だ。それをぼんやり上から眺めている。

 この「ぼんやり感」が島畑さんの詩には強い。小説のなかで描写をする際には、非常にくっきりとものが見えているのに、詩になると精度が落ちてしまう。自己の周囲や世間のありさまを描くジャンルである小説と、自己の内部を描く詩との違いであろうか。見えたものをそのまま詩に書いていると島畑さんはつねづね言うが、見えた光景に入ってゆかないのが一段強度の落ちる理由かとも思える。

 では入ってゆけばよいのかというと、島畑さんの場合はそうしてはいけない気がする。詩のなかにあるのが徹底的な肉体否定、自己否定だからである。とても陳腐だが、もっと身体を大切にしてほしい。散歩をしたり、ガラスなどではない穏やかな海をみたり、青くさい草むらに寝ころんだり、風呂に入ったり美味しいものを食べたり、ジムに行って馬鹿野郎と思いながらサンドバッグを蹴ってみたり、そういう日常的な次元で身体があることの快さや安心感を得てほしい。そう思った。

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