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第三回研究会(詩人にとっての「救済」とは何か)

2022年5月28日(土)


 第三回は中田先輩、内藤先輩、島畑さんの作品合評を中心に、各々の課題発見がなされた回であった。 

 中田先輩の詩(「涙痕」)では、先輩は完成されている身でありながら、完成されていない「あなた」を助けに行こうとする。しかし何もできずに、見ていることしか叶わない無力感に悩まされている。山下先生は誰かを救いたいと語る時、「どうせ救われない」と開き直ってしまう、冷たい「批評的な意識」が自分には存在するとおっしゃった。と同時に、「これこそが救いだ」と名乗る救いはことごとく偽りで、「どうしても救いたい」という「詩的精神」でもって美を刻まねばならない、と。 

 内藤先輩の詩(「死の現場」)では、「“灰から黒へ”」というテーマのもと、自身の根源である「黒」を分解した光景が描かれている。内藤先輩は前回の合評の際、「理想の部屋が欲しい」と語っていたが、「現在の私」が過去の「部屋」を描こうとすると距離をとってしまうのだという。今の段階では自分は「徘徊している浮浪者」であり、「美か人間か」ではなく、「人間の美」を、例えば美しかった母の写真を額縁に収めて眺める詩を書きたい、と語っていた。この日録を書いているのは第四回の研究会が行われた後であるので、補足をすると、先述した詩は書けなかったと言っていた。さらに「死の現場」シリーズは続いていくのだが、詳しいことは次回の日録に託したいと思う。 

 島畑さんの詩篇は、恐るべき速さで執筆され、そのどれもが秀作であった。山下先生は「自ら闇を放っている」「田村隆一のように世界の傷を語れてしまっている」と指摘し、更に「この仕組みに気づくか、もしくは自分の傷に気づいたら恐ろしいことになってしまう」と危惧を示された。島畑さんにとって世界は存在しないもので、常にリセットが繰り返されている。しかしそれは肉体を持つ以上ありえないことで、何かの拍子に傷が溢れ出してくる危険性があるというのだ。これに対し、中田先輩は「詩作の際にセーブポイントを作っておくのはどうか」と提案されていた。私は、彼女「だけ」の傷からこぼれおちる血があるのなら、それを見てみたい、とだけ思う。 

 詩人にとっての「救済」とは何か。「救済」が訪れた時、詩人は詩人たり得るのか。私はたとえ救われず、孤独や希死念慮がつきまとう人生でも、生きることに絶望しないために詩を書き続けようと思っている。研究会で鋭いほどの才能にふれると、自己を顧みて苦しいこともあるけれども、こうやって記録を遺すことは意味があるのだと信じ、筆を擱くことにする。


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