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思想と爆弾
海老沢優
五月も終わりに差しかかり、鉄色がかった闇を生温い風がくすぐる午後七時、私の家に爆弾を身に纏った女が訪ねてきた。
都内の勤務先から二駅分ほど歩き閑静な住宅街(そのほとんどは空き家だ)に建つ自宅に帰ってきたのは、女が訪れるほんの三十分前であった。昨年までこの家には亡くなった私の曽祖母が一人で暮らしていた。少々古臭い外観だが、一人で住むには十分すぎる広さと仕事場が実家よりも遥かに近いのが気に入って、ひとまず住まわせて貰えないかと祖父母に頼み込んだのだ。
帰宅後すぐにシャワーを浴びて、帰り道に買った安い弁当をビニール袋から取り出そうとしたときにインターフォンが鳴った。普段この家に人が訪ねてくるなんてことは滅多にないため、驚きのあまりしばらく弁当を持ったまま動けないでいた。二回、三回と刹那の静寂も許さぬ具合でなり続ける呼び鈴にようやく硬直を解かれ、恐る恐る玄関の覗き窓に片目を近づけてみると、季節外れの真っ黒いコートをボタンまで閉めて着込んだ女が、青白い顔をわずかに伏せて立っていた。ただごとではなさそうな女の雰囲気に恐怖よりも心配が勝り、ゆっくりとドアを開ける。するとその音を合図に顔を上げたらしい女とすぐに目が合った。女は私が思ったよりずっと若かった。ひどく汗をかいていて、月明かりのように青白い顔には細い髪がいくつも張り付いていた。
「なにか用?」と、想定していたよりも上擦ってしまった声でそう聞くが、女は品定めをするかのようにじっと私の目を見ているだけで返事をしない。苦痛を伴う永遠から逃れるように、私は遠くから聞こえる踏切の音と、生温い風が運ぶ女の熱く濃厚な匂いにひたすら感覚を尖らせていた。
やがて女が私から視線を外して厚いコートを脱ぎ始めたのは、実際には私の発言から数秒後のことであったと思う。より一層濃密な、蒸れた女の匂いのする熱気がその場に立ち込めて、思わず体をのけ反らせる。ほとんど透明になっている白いシャツが張り付いた女の体は、胸のすぐ下から下腹部にかけて、妙な凹凸で膨らんでいた。凹凸は腹巻きのように胴を一周していて、出っ張った部分からは濡れたシャツに透かされてわずかに茶色い筒のような物体が見える。
そしてまた静寂が訪れた。先ほどよりも遥かに長く、また遥かに卑猥な空気を孕んだ静寂だ。やがて私はそれに耐えかねて、語気を強めてもう一度質問を繰り返した。
「なにか、用?」
「あたしを一晩泊めてほしいんです」と女は泣きそうな声で言うと、汗ばんだシャツを胸の辺りまでめくり上げた。「あたしの体には爆弾が付いているんです」
「爆弾だって?」と私は呆れた調子で叫んだ。見ると、女の胴体には豊満な乳房を支えるように筒状の物体が連なって取り付けられていた。ちょうどトイレットペーパーの芯のような見た目のそれは、やはり背中までぐるりと巻き付けられているようであった。
「こんな悪ふざけをするために見ず知らずの僕の家まで来たのか?」
「悪ふざけなんかじゃないんです」と女は堰を切ったように話し始めた。「この爆弾は本物です。朝起きたら突然体にこれが巻き付いていて、ほとんどわけが分からなかったけれど、でもこの爆弾は本物だってことだけは分かるんです。だってひどく頭が痛むから……。あたしの家族みんなにも同じように爆弾が取り付けられていて、あのまま家にいたら一人の爆発でみんな死んでしまう。そう思ったら怖くなって、あたしは自分のうちから逃げてきたんです」
あまりにも女が必死の形相で話すため、それまではチープな玩具のように見えていた茶色い筒の群れが、中に火薬の仕組まれた、ずっしりと重い爆弾であるように思えてしまう。私は矢庭に恐ろしくなって、女から逃げるように一歩、二歩と後ずさりする。
「だいたい、万が一きみに取り付けられたそれが今夜爆発するようなことがあれば、僕も死んでしまうじゃないか」
「あなたには絶対に迷惑をかけませんから……。この家で最も直線距離が長い場所でそれぞれが夜を明かせば、万が一のことがあってもあなたに被害は及びません。一晩だけです。どうかお願いします……」
「僕が無事でもこの家は無事じゃ済まないだろう! やはり警察に……」
「大事にはしたくないんです! きっと今晩に限って爆発することはないでしょうから、お願い、お願いします……」
徐々に勢いを増していたこの滑稽な押し問答は、沈黙に徹していた闇夜が光る目でこちらを睨んでいることに私が気付いたことでようやく終わりを迎えた。私はひとまず女を家へ入れると、親友に相談するために古びた電話機に手を伸ばした。「あっ」と小さく叫ぶ女を、警察を呼ぶわけじゃないよ、となだめ、押し慣れた番号を入力する。彼は大学からの友人で、就職活動の悩みから仕事の愚痴までなんでも聞いてくれた、私にとって唯一親友と呼べる存在であった。私は困ったときには真っ先に彼に相談するようにしていた。
しかし訳を話した私に待ち受けていたのは、信頼する友からの瞋恚の声であった。
「お前がそんな薄情な人間だったとは、なんとも悲しいよ!」親友はほとんど癇癪を起こして、私を激しく非難した。「彼女は困り果てていて、藁にもすがる心持でお前の家まで来たんだろうに、なぜそんな薄情な差別をするんだ!」
「差別? 差別なんかじゃないだろう……。僕にとってこれはほとんど、外寇のような出来事なんだから! 彼女は爆弾を携えているんだぞ? そうなってしまったのが故意であってもなくても、普通は人の家に上がり込むなんて、全くもって自粛すべきだ!」
「いいや、差別だ。お前はとんだ差別主義者だよ! 彼女をまるで毒虫のように蔑ろに扱うのが、あるいはお前の陰険な性癖か? お前のような人間の考えがひどい匂いを撒き散らしながら世界中に蔓延っている限り、世の中から差別はなくならないんだよ!」
「だったら君がこの娘を引き取ってくれよ! 一体どうしてそこまで言われなきゃならないんだ?」
「ああ、差別だ、差別だ、差別だ……」
友によく似た声色の悪魔は未だ差別だ、差別だと嘆くように非難を繰り返していたが、私はもう彼に話したいことなどなかった。黙って電話を切る。かつてどんなときでも私を安心させた彼の笑顔は、今や思い出そうとしてもその顔に黒いもやのようなものがかかってしまっていた。彼は一体どうしてしまったのだろう? 爆弾というのをなにかの比喩だと思っているのか? それとも、間違っているのは私の方なのだろうか。世間では爆弾を身に纏った女をも、熱い抱擁や槍のような接吻をもって迎え入れるのが常識なのだろうか……。
脳髄に指を突っ込まれ、こねくり回されたような気分になってしまった。私は親友との精神的な決別が悲しくて、女の処遇などとても判断できなかった。私は女に勝手にしてくれ、と吐き捨てた。女は女でいざ滞在を許可されると、露骨に申し訳なさそうな表情を作る。その態度が癇に障るため、女の代わりにすっかり冷めてしまった弁当を見つめながら「腹は減ってないのか? 僕はとても食事が喉を通るような気分じゃなくなってしまったから、あれを処理してもらっても構わないけれど」と尋ねた。
「大丈夫です。どうせ味なんて分かりませんし……。それより、宿代の方なんですけど……」
「は?」
「あたしとしては、体で払っても構いません。むしろお金は持ってませんし、その方が助かるんですが……」
血液の沸騰とともに激しい怒りを感じて女の方を振り向き、血走った目で睨む。この女はつくづく、私の神経を逆撫でするのが上手いらしい。
「いい加減にしてくれ! 君は僕とその危なっかしい腹巻きのどちらが先に果てるのかどうかの緊迫を味わいたいのか知らないが……僕の好意を無駄にするなよ! そんな濃厚な接触、僕にはリスクしかないだろう!」
女は俯いてなにも言わなかった。埃の匂いばかりであった家に女の汗の匂いが溶け込ん
でいく。仏壇に置かれた曽祖母の遺影と目が合い、おぞましいほどの罪悪が噛み切れない肉の塊のような不快さを私に与えた。
それから私は女に一階の和室の隅で寝るように言った(そこは女の申し出通り、二階にある私の寝室と最も直線距離が長い場所だ)。能率重視の上司が部下に業務を指示するように、淡々と。恭しく頭を下げる女を無視してキッチンでコップに水道水を一杯注ぎ、喉にへばり付いた泥のような苛立ちを流し込むために一気に飲み干した。そして重みに喘ぐ階段を一段飛ばしで上っていき、すぐにベッドに横になった。
それから私は今日起きた数々の出来事について、美術館の展示を見て回るように、ゆっくりと順番に回想していった。実際、平凡な日々から逸脱した出来事が一気に押し寄せてきたため、その作業はほとんど他人の絵画を眺めるようなものだった。社会人になってからは、今日のように感情を剥き出しにして誰かになにかを訴えることが格段に減った。幼い頃、親に叱られた日の夜、友と喧嘩した日の夜、いつか訪れる死神について悩んだ日の夜は決まって心臓が握り潰されたまま戻らないような苦しみに慟哭した。そして自分が生きている意味について環状の思考を必死に巡らせた。それでも最後は睡魔に打ち負け、いつも通りの朝を迎えれば、決まって昨晩の大仰な思想が馬鹿らしく感じてしまう。今夜もまた意識が闇に断ち切られるまであれこれと悩むだろうが、「寝て起きれば全て元通り」に慣れすぎた私にとって、その課題が休日の朝まで持ち越されるものだとはとても考えられなかった。
大蛇が私の腹に巻きついてきて、あばら骨を砕いてしまったところで目が覚めた。実に恐ろしい夢であったが、こんな夢でも目覚めてしまったことを私は強く後悔した。現実に引き継がれた鈍い痛みの正体は、体に取り憑いた爆弾だった。女のものと同じように、胴体を一周するように筒状の爆弾が縦向きに付いている。首筋に流れる汗が刃物のように鋭く感じた。重い上半身を急いで起こそうとすると前のめりの姿勢になり、みぞおちを爆弾の先端が勢いよく突いた。身を捩り、そのまま横向きに倒れ込む。鼓膜を殴打する轟音が際限なく速度を上げる。……なにが起こっている? 女によるたちの悪い冗談か? 私は爆弾によって死ぬ? 爆弾は私によって死ぬ? 蛇に睨まれた象? 象、私が象ならあるいは……。
次の瞬間追い打ちのごとく私を襲った爆発音は、まさに象が四股でも踏んだような衝撃であっただろうか。私は大きな音が嫌いだ。幼い頃に花火が上がる音を聞いて、夏祭りの会場で号泣したことがある。そのときに見たであろう、驚いて落とした赤いシロップのかき氷が砂利に溶けていく光景は、鮮明に脳裏に焼きついている。しかし今さっき響いた爆音は、それよりもずっと荒々しく、また儚いものであった。
女が死んだのだ、と私は思った。なんとか寝室から這い出て、滑り落ちるように階段を降りる。和室の前には小さな火炎を纏った肉塊が佇み、辺りには踏み潰された蚯蚓のような臓器が飛び散っていた。艶々とした鮮血の沼に浮かんだ女の破片たちはほとんど黒焦げであった。しかしそこからは、視覚を介して得たその凄惨で醜悪な光景に伴い流れ込んでくるはずの腐食した鉄のような臭いを全く感じることができなかった。
鼻から下を失った女の顔は畳の抉れた和室の隅に転がっていた。柘榴の断面のように爛れた皮膚からはやはり赤い血が流れ、溶け落ちた目玉がかつて収まっていた眼窩には絶望によく似た果てしない暗闇が渦巻いていた。わずかに深緋に染まった長い髪だけは、気味が悪いほど綺麗な形を保っていた。
私はこの赤黒い地獄に一人取り残されたのが怖くなって、ひとまずかつての親友のもとに逃げ込むために、爆弾をぶら下げた重い体を引きずって玄関の向こうへと飛び出した。
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