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   良い子 
                                   湯沢拓海
 

 仕切の襖を開けて父が顔を覗かせた。夜寒の張った床の上に立ったまま、娘とその母に、もう寝たかと聞いた。娘は、おとなしい寝息を立てる母の布団に潜り込んでいた。目を閉じ、母の胸もとに顔をうずめ、答えなかった言葉の死骸から、寝息を作り上げていた。

 父は何も言わずに襖を閉めると、畳を踏んで部屋の中へ入って来た。娘は閉じていた目をうっすらと開けて、ぶあつい布団の中から、父の手に持った燈篭の灯が移動するのを追った。小さな拳を、母のかおりの浸す暗がりで握りしめた。そのまま僅かな衣擦れの音を立てて、日に日に失われていく母の体温を抱きしめた。

 やがて娘は眠りに落ちたが、ある時ふと、自分を包む力に促されるようにして目を覚ました。吐いた息が、熱としめりけを持ったまま返り、顔にあたった。少し身じろぎすると、目の前の暗さのかたちが分かった。控えた力をもって、母が、娘を抱きしめていた。

 娘はゆっくりと上を向いたが、母の頭は布団の外に出ていて、その顔は見えなかった。再び静かに顔を伏せると、腕を振り払わぬよう、ただじっとして、母のあたたかさに身をゆだねた。実際、母から娘への抱擁は随分と久しいものであった。

 燈篭を父に取られてからというもの、母はしばしば床に伏すようになった。体のまるみが失われ、骨ばっていくさまを、毎晩こうして抱擁を受ける度に、娘は身をもって感じていた。やがて、体を起こしていることの方が稀になった頃、母は自らの手で娘を抱き寄せることが困難になった。娘はしだいに、自分の力が勝っていくなかで、母の遠のいていくのを感じた。ある時からはこうして、娘の方から、髪の毛の一本もはみ出さずに、すっぽりと布団の中に入り、おとなしい母にしがみつくようになった。

 娘は、そっと母の腰へ両腕を回し、その随分軽くなった体をこちらへ引き付けた。ふくらみの失われた乳房は、もう娘を迎え入れることはなく、代わりに、細く伸びるあばら骨の上で鼻を転がした。母のかおりが目の奥の暗がりに響きを生んで、娘の瞳の上には透明な膜が波打った。やがてこぼれた小さな涙が、一筋の流れとなって頬を伝い、布団に染み込んだ。母は最後に、うつろの中に泣く娘を、いっそう強い力と、母の熱とをもって抱きしめた。そうして、だらりと芯の抜け落ちた重たい腕を残したまま、呼吸を遠ざけていった。

 娘がしばらく自らの体温で母を抱いていると、布団の中へ父の手が差し込まれた。端の方を掴み、僅かに持ち上げて、中の母娘の様子を覗いた。布団の隙間から、灯に濡れた父の顔が浮かび上がり、その輪郭がやけにくっきり見えることに、娘は小さな歯を食いしばった。

 緋色に光る涙を散らし、娘は布団を跳ね上げるようにして立ち上がった。そのまま体すべてを使って父のことを押しのけると、傍らにあった燈篭を掴み上げた。

「これはあなたの灯じゃない」

 振り返り、陰った父を睨みつけて、娘は喉を絞るような低い声で言った。

顔色一つ変えない父は、立ち尽くしたまま何も答えなかった。娘は涙で歪んだ視線を、今度は足もとに眠る母へとかぶせた。母は瞼も口も、耳さえも閉じているようにして動かなかった。重たい沈黙と、母の中を流れる僅かな息吹が重なっていくような気がした。

娘は目を絞り、あたたかな輪郭の涙を母の上へこぼすと、燈篭を持ったまま駆け出した。襖を開け、ほのぐらい廊下を進み、そのまま格子の外へ飛び出した。門の脇に生えた枯れ枝が、娘の勢いを妨げるように、夜闇の中にかかっていた。娘は体勢を変えつつ固い地面へ踏み込むが、その黒い切っ先に、纏っていた衣を僅かに引き裂かれた。

表へ出ると、娘は海を目指して、町の闇を燃やすように突き進んだ。

やがて空気が潮のかおりを含みはじめた頃、夜の沈黙の中に、甲高い金属音が鳴り響いた。娘は少し足を止め、息を荒げながら遠くの音の方を振り返った。町の真ん中に立った火の見櫓で、人影が警鐘を打ち鳴らしているのだった。さらにその音と重なるようにして、やけに

そろった多くの足音がこちらへ向かって来るのが分かった。娘は燈篭を胸の中へ抱えると、海の方へ向き直り再び走り出した。裸足のために、少しずつ体が冷えてきていた。そのまま少しばかり走っていると、波のさざめきに呼応するように、道がひらけてきた。

浜へ続く冷えた石階段を駆け下り、ようやくあらわになったその海岸を見て、娘は絶句した。平たく打ち寄せる波を遮るようにして、町のニンゲンたちが遠くまで一列に並び、海に防衛線を張っていた。遮るといっても、彼らの足は決して波に触れないような位置に揃えられていた。しばらくの間、娘は重たい布を被せられたように動かなかったが、やがて浜まで下りかけていた足を引っ込めると、踵を返して石階段を駆け上がった。後ろから視線の当たる体が、一歩先を行く思いに添って慌ただしく動いた。そのまま上りきったところで、しかし娘の足は再び止まった。

 風の起こらない町から、知らない顔のニンゲンたちが群れを成して、こちらへ歩いて来ていた。彼らは家の中の暗がりから、うねるように現れ、灯り一つ持たずに、皆沈黙していた。実際、ここら一帯で灯りと言えるものは、娘の持つ燈篭の灯と、重たい黒雲の隙間から覗く月くらいのものであった。その淡い月光に濡れたニンゲンたちの体は、気味が悪いほど白く見えた。弧を描くようにして迫ってくる彼らに、娘は逃げ場を失って、結局また石階段を下りて浜へと戻った。冷たい砂に足を掬われかけながら、娘は身を屈めて後ずさった。前だけではなく、後ろで海を隠していた彼らも、皆足取りを合わせて娘へと迫った。夜闇と足音の集まる娘の中で、小さな心臓が赤く打っていた。

 おびただしい数のニンゲンが、逃げる娘を取り囲み、そのまま空気をつぶすようにしてにじり寄る。届いてた波の音が景色と共に少しずつ塞がれてゆくなかで、娘は歪に身じろぎした。やがて、いっせいに伸ばされた彼らの白い手は、少しの隙間もなく娘の体を抑えつけた。冷え切った手形が、そのままの形で肌の奥へ沈み込み、娘の熱された筋肉をしぼませてゆく。

手に持っていた燈篭がすべり落ち、冷たい浜の上に刺さった。しだいに体の境が薄れてくると、娘は力無く倒れ伏した。ニンゲンたちは、ほの赤く照らされた砂を避けるようにして、娘の上へ被さり、体を地面へと固定した。寝かされた浜には波の音が通っていた。

しばらくすると、遠くから乾いた足音が響いてきた。それを聞きつけた娘は、一瞬魚のようにぴくりと跳ねると、こわばった手足を動かそうと力んだ。知らない顔のニンゲンたちは、暴れる娘を抑えつつ、娘の纏っていた衣の破れ目に指を挿し込んだ。そこから裂くようにして娘の衣服を脱がしていった。あらわになった、ふくらみかけの乳房は、ニンゲンたちの作る暗がりにふるえ、ほんのり色づいた先端を、やわらかさの中に押し隠した。近づいてくる足音が、小さな腹の底へと踏み込んで、娘の子宮に重たい痛みを与えた。

掴まれた喉の奥で唸っていると、やがて娘の鼓動の隙間をくぐるようにして、父が現れた。娘は睫毛を逆立てて、その青黒い瞳を睨みつけた。

「私の温度をかえせ!」

 娘の叫びは、父のたたえる淀みの中に、埋まるようにして消えていった。

「あなたは病と変わらない。母を蝕み、町を蝕み、子さえ蝕んでゆく。己が熱を失って、私たちはどうして生きられよう。誰も生きない、何も生まれないではないか」

 父は表情一つ変えないで、黙ったまま声を聞いていたが、やがて娘の息切れが収まりはじめると、ゆっくり口を開いた。

「父が病だというなら、その病は誰が作った? お前たちが作ったのではないのか」

 父の瞳は娘ではなく、この世のうつろを覗いているようであった。そして、その何も見えないということを、嘆きさえしていないようであった。この黒い静謐は娘の体を芯から冷やしていった。娘は口をつぐんで、返すべき言葉の輪郭を探していた。

 空に一点昇っていた月が、重なる黒雲によって、とうとう光の一筋まで隠されてしまった。視線を交わしたまま、父はゆっくりと、左手に持ったそれを娘の前へ突き出した。大きく見開かれた娘の目は、世界の傾きを捉え、途端に体から自分を支えるための力が失われた。

父の左手に握られた黒髪には、燈篭の灯に濡れた、母の死体がぶら下がっていた。

「お前が燈篭の灯を母から遠ざけ過ぎた為に、母は病に殺されてしまった。この灯は、お前の言う通り、父のものではなかった。しかし、お前のものでもないのだ。これは母のものだった。そして、その母が失われた今、この灯は、誰のものでもなくなった」

 ただそこに有るだけとなったむなしい灯が、沈黙と混ざって燃えている。父は、母娘の体を交互に見てから、再び、その血の通っていない舌を動かした。

「母とお前はとうの昔に絶たれたのだ。もう、母はお前を、守れない。父だけが、病だけが、お前たちを守るのだ。一つも取りこぼさない、誰の不都合もない。素晴らしいではないか」

 父は、手に持った母を浜の上へ投げ捨てると、懐から鈍く光る銀色のメスを取り出した。そのまま、おとなしくなった娘の体をひらきはじめた。

 ぱっくり割れた娘の腹の隙間から、血にくるまれた赤い肉がこぼれ出し、娘を掴む白いニンゲンたちへ飛び散った。父はそのまま爪でもって残った薄い肉を掻き出すと、あらわになった、たくましい内臓を冷たい手でつかまえ、取り除きにかかった。

 針の穴を通すようなか細い呼吸が、娘の体を生かし続けていた。娘はとっくに、自分の輪郭など分からなくなっていた。それでも、死んだ母を見つめる眼差しだけが、娘がここに在るということを確かにし、ニンゲンたちと娘とを区別させていた。乳房と腹とをえぐられた母の死体が、産毛の一本も動かすことなく、暗く、冷たい浜に転がっている。そこへ静かな波が押し寄せ、母から滴る血と体温を水の中に戻してゆく。

 母を見つめる娘の瞳は、青黒く淀みはじめていた。涙も父に取られてしまった。

 父は、空っぽになった娘の中に、新しく、青い内臓を敷き詰めた。皮を閉じて、針で縫い上げると、娘の体を掴んでいた無数の手がほどかれていった。やがて、重なるニンゲンたちの隙間から、娘だったものが立ち上がった。冷えきった体はすっかりと色が落ち、その青黒い瞳は、もう母を見ることはなかった。うっすらと頬に干からびた涙の後は、胎脂のように白んでいた。母に似た、おとなしい黒髪だけは、頭に残ったままだった。

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