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第十三回研究会(「わたし」と「世界」の垂直性)

2022年10月1日(土)


「あなた」への現代詩と「わたし」への現代詩の二つの流れがある。研究会では私を除く全員が「あなた」への現代詩で、その為に毎回私の詩の合評は、難航するらしい。私の詩(「言葉の欲望」)は、「母がわからない私」がわからない、という母子関係の根本的問題を表出していた。山下先生はこの詩を「あなた」が「不可解なわたし自身」のようなところがあり、わたしと世界との間に「あなた」がいない為、田村隆一のような垂直的言語によって書かれているとおっしゃられた。舟橋くんはそれを受けて「書き方は田村、詩意識は菅谷規矩雄」であると言う。「午」という暗黒点があり、詩全体がその註釈として機能するのは、わたしが「午」の外に出て、時代の虚無に立ったからだ。内藤先輩は「マトリョーシカ」に例えた。垂直とは壁のことであり、外を書いているようで、実はまだより大きなものの中にいるのではないか、と語った。今回ほど全員の意見が違う合評は初めてに感じた。もし「マトリョーシカ」であるならば、書き続けることで一番外側に出られるか、わたしはわからない。しかし、今の言語感覚や形式は以前よりしっくりくるので、次の一行が自分でも楽しみだ。

 中田先輩の詩(「灯」)は、前回から改稿されて、「赤い鳥」は「鴉」と名付けられた。先輩の詩には鳥がよく出てくるが、わたしにはそれが「あなた」へ向けられた詩自体のことに思える。なぜなら、先輩の詩は鳥の名前が決められた時に、「あなたを救い」に行くイメージが、より一層の強度を持って現れるからだ。佐藤さんは、全ての言葉が中田先輩の生活と強度を持って絡まっていて、日常の光景としても読めると語った。舟橋くんは「労働者が求めているのは、パンではなく詩である(シモーヌ・ヴェイユ)」を引用して、最終連がその生活を断ち切り生活を詩的化するものだと言った。山下先生は続けて、それすらも生活と読み取れるなら一歩前進した、と高く評価した。中田先輩はこれらの批評を受けて、「もし自分の生徒に読ませたら」と言う問いを発したが、「詩は時限爆弾のようなもの」と山下先生は答えた。わたしは先輩が以前「救いは与えられずとも、きっかけは与えられると信じて書いている」と言っていたのを思い出した。その確信が持てた時、先輩の詩は鳥に名前がつき、「あなた」への抒情は鋭い流れを生むのだろうと思った。

 正村先輩の詩(「光」)は、先輩独自の肉体化されたリズムが鋭く刻まれた詩であった。山下先生は、「息の転回」が詩を詩たらしめると語った。正村先輩は、毎度自信なさげに「それっぽいものができた」と詩を持ってくる。中田先輩は、「それ」が何なのかを分析することが次の一歩につながると助言した。この詩の最大の特徴は、リズムが単に音数律によるものではないと言うことだ。非常に有機的で、リフレーンが効いていて、可変する速度が言葉の並びのちょっとした長短から感じられる。舟橋くんは「THA BLUE HERB」の「路上」という曲に似ていて、ポエトリーラップの書き方にそっくりだと語った。全体を通して、肉体化された言葉で書かれ、しっかりと自分の一歩に確信を持っている詩だった。

 自分と違う詩風の詩を読むと、様々な発見がある。「わたし」と「世界」の垂直性は、強烈な負荷を自身にかけていたのだと気づくことがある。以前、みんなは「悲しみ」から詩を書くが、自分は専ら「憎しみ」から詩を書いているという違いがあることに気づいた。おそらく、「あなた」の有無は関係しているように思う。わたしは「あなた」なしで書いている今の自分の「不条理なエネルギー」源を解明しなくてはならないと思った。それなくして、わたしはわたしの詩に食い殺されてしまう気がしている。

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