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2022年5月14日 − 日本大学芸術学部西棟5F「I研究室」にて

「救済を信仰する(救済型)か、安心を信仰する(安心型)か」。これは内藤先輩の詩(「捨て子の路」「駅舎」)の合評を行なっている際に生まれた、あらゆる人間がこの2種類に分類できるという仮説だ。例えば日本作家なら芥川龍之介や太宰治が「救済型」で、森鴎外や室生犀星が「安心型」、近代哲学ならばデカルトやハイデガーが前者、スピノザやヤスパースが後者であるというように。 

 とはいえ、人間が単純な生き物でない以上、「救済型寄り」「安心型寄り」、さらにはもっと複雑な「偽救済型(救済型を装った安心型)」や「偽安心型(安心型を装った救済型)」も存在すると思われる。さらに、山下先生は両型のバランスを崩さずに立っていたのが吉本隆明であり、この無敵の状態こそ、私たちが目指すべき姿であるとおっしゃった。

 大前提として、救済型の人間は「(魂の)救済」を求めているのであって、「(肉体的な)幸せ」を求めているわけではない。ゆえに、幸せを手にしても本質的には救われず、決して叶うことのない「世界再生」を望んでしまう。激しく願えば願うほど、彼から発される言葉は凄みを増し、人々を魅了し熱狂させる。けれども、その状態は到底、長くは続かない(「救済型」に挙げた人物の末路を考えると、直ちに理解できる)。かといって、この世のありとあらゆる人間が安心型になってしまうと、人類史は間もなく破綻してしまう。実際に、世界が窮地に陥った際に救済型の人間が現れやすい、と先生はおっしゃっていた。空白に置かれた世界で「実存」を示すには、まさに吉本のように両型の「間」を取ることが大切なのだ。 

 ところで、私はこの議論がなされている間、自分は一体どちらの型に当てはまるのだろうと考えていた。表層的な自分と深層的な自分の求めるものが一致しない以上、この分類は単純なようで難しい。そこで助けになったのが、(加藤)佑奈ちゃんの「安心できない環境に生まれた人は、根本的に安心型にはなれない」という呟きと、内藤先輩の「最初に救済を求めたら、安心には戻って来られない」という言葉であった。まさに痛いところを突かれた私は、自分を「偽安心型」と仮定づけるに至り、今も思索を続けている。 

 この分類は研究会をより発展させるだけでなく、私たち個々人の自己・他己分析を深める手立てにもなるだろう。当日は舟橋先輩が分類図をまとめてくださっていたと記憶している。新説として発表される時がメンバーとして楽しみである。



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