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第一回研究会(不幸について)

2022年4月30日(土)


「詩を書くときだけ不幸になれる」

と呟くと、会議室に一瞬の静寂が流れた。この発言は場違いだったのかもしれない。しかし、実際に私は詩を書き始めるとき、普段の「幸せ」な生活から切り離されたところに、意識的に行っている感覚があるのだ。この場で私は異端者で、私だけが「普通」であった。

 山下先生の詩は、たった一行で、その詩で語られるべき全てを語ることができている。その一行が「詩になるべき言葉」だとしたら、残りの言葉は「詩のための言葉」だ。舟橋くんはこの構造を、リボルバー(回転式拳銃)に例えた。山下先生は一発の弾が入ったリボルバーを、カチャカチャと空撃ちしながら遊ぶことができる。その行為は「批評意識」とも結び付けられる。シリンダーに銃弾を何発も詰め込み、自分の心に「不安」と「不幸」をもたらし続けていれば詩は書けるだろう。しかし、それはドゥルーズのように狂気の道を歩むことになる。詩を書く者は、常に「批評意識」を持ち合わせていなければならない。山下先生は「空撃ちできる銃を持て」とおっしゃっていたが、このことを言っているのだろう。「詩になるべき言葉」が、思想の根底を形成する言葉なのだとしたら、「詩になるべき言葉」は、思想で断罪できない言葉になる。

 島畑さんの小説(「煙草とチョコレート」)の合評をしている時、舟橋くんは自分が小説を書けない理由を語った。小説の描写は「詩になるべき言葉」が生まれる「過程」であり、彼には「過程」を描く作業が無意味に思えるのだ。

 舟橋くんは「空撃ちできる銃」を持っているが、カチャカチャと遊ぶことはしない。島畑さんは銃弾が入っていないこと知っていて、何もない拳銃そのものを語ることができる。内藤くんは一発ではなく何発か銃弾が入っている。正村くんが持っているリボルバーはボロボロで、その弾が放たれるかは撃ってみるまでわからない。田口さんはボロボロのリボルバーの傷の理由を見つけようとしている。銃弾が入っていてもいなくても、詩人は常に引き金に触れていないといけないのだ。

 そして、私は詩人であるはずなのに、その引き金から指を離すことができてしまう。リボルバーの例えは、私自身の分析を大きく発展させた。なぜ私はアーティストになるはずだったのに学校の先生をやっているのか、なぜ詩をやりながら音楽もやめられないのか、なぜ根底では世界が信用できるのか……

 ポストモダンは一発も入っていないリボルバーと言えるだろう。誰かが「幸せ」なら、私も「幸せ」ということはありえない。「幸せ」は伝染しない。なぜなら、「幸せ」は「私」しか受け取れないものだからだ。そして、「私」が時間の中に在る限り、「幸せ」も時間がなければ受け取れないということになる。

 詩は時間以前の「永遠」のなかで書かれるべきものだ。私が詩を書くときに意識的に向かっていた『普段の「幸せ」な生活から切り離されたところ』とはおそらく、この「永遠」の領域だろう。その中に「不幸」の共通意識が存在する。「不幸」には「共感」が存在する。つまり、詩は「不幸」でなければ書けないと言える。この場で私は異端者で、私だけが「普通」だと感じたが、私も「幸せ」を詩にすることはない点において、他のメンバーと同じだろう。

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