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2022年夏期(7/9・7/23・8/6・8/13・8/20・9/3)− 日本大学芸術学部西棟5F「I研究室」にて

 夏休み期間も、基本的には隔週で勉強会をおこなった。行われた合評や議論から、要点をまとめて日録としたいと思う。

 論文について、山下先生は「架空の講演」のようなイメージで、語り聞かせるように書いているとおっしゃった。内藤先輩は「対象と会話するように」書き、中田先輩は一般的には注目を集めない詩から分析をはじめ、オーソドックスな詩にうつる。舟橋先輩は初めに引用してから書き始める。わたしは日記のかたちをとって書く。このように、論文の書き方には個人の性格が投影されるため、とても興味深く感じる。

 わたしは批評が上手くできないと悩んでいた際に、山下先生に「人間の脳は論文を書くようにはできていない」とアドバイスを頂いたことで、とても気が楽になったことを覚えている。批評は「恋愛」や「精神分析」のようなものだ、という示唆も、緊張を解くのに重要なものであった。

 詩作品においては、毎回2〜3作品を取り上げて合評を行った。とくに重要なものとして「詩には『俳句的』なものと『短歌的』なものがある」という発言が挙げられる。これは9月3日(土)に中田先輩の詩(「壁」)を合評している際に、山下先生が「中田くんと古川くん、加藤さんの詩は俳句的だ」と指摘したところから生まれた分類だ。短歌的な詩は連分けをしても表現がつながっており、俳句的な詩は、途切れ途切れに起伏を描く。この分類を踏まえておくと、自分と異なるタイプの作家に対しても読解を行いやすくなる。今年の5月に議論された「救済型」と「安心型」のように、人物をタイプ分けするのも面白い試みかもしれない。

 また、正村先輩の詩(「命脈」)を合評している際に、山下先生は「詩における美しさは醜さと同義」とおっしゃった。正村くんの詩の良い点は、美しい言葉で自己を覆い隠そうとしていない点だ、と。荒地派に匹敵するほどの「原始的な言語感覚」で紡がれる詩は、研究会の中でもひときわ異質な魅力をもっている。

 8月6日(土)の合評で、山下先生は「自分が死んでも世界は残るか?」という質問を投げかけた。この場にいたのは山下先生、舟橋先輩、内藤先輩、正村先輩、古川くん、わたしの6人であったが、全員が「残る」と回答した。この問いは以前、日芸で教鞭をとっていらした中村文昭先生が提唱したもので、中村ゼミでは半々に答えが割れたという。かなり本質的な問いであると思うので、ぜひ他の研究会メンバーにも聞いてみたいものである。

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