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第二十回研究会(「あなた」の片鱗)

2023年5月6日(土)


 詩を二篇合評した。一つは正村さんの「水浴」で、もう一つは内藤さんの「無題」という詩だ。二人とも詩風というか、感性が私から遠いところにあるように感じられ、私はその場で何か言えたことがない。今回も2週間ほどたって、ようやく日録におこしている始末だ。

 

 以前の日録で、詩における「あなた」という語が取り沙汰された。私はまだ「あなた」の輪郭を捉え損なっている。正村さんは、自分には「あなた」がいないのかもしれない、と言っていた。しかし、「水浴」では確実に「あなた」の片鱗がのぞいていた。今までの正村さんの詩のような、内省的な問答ではなく、少し開かれたように感じたのはそのためだろう。

 山下先生は、特に三連目と四連目を取り上げて、詩を書いて「あなた」を捏造することへの根源的謝罪が見られる、と評した。また、三連目と四連目以外は、「まだ会えていないあなた」である、と続けた。

 内藤さんが、「正村さんにとって会っているけど会っていないとは何か」と、尋ねた。正村さんは、そもそも会ったという感覚がないと答えた。恋愛は「あなた」と会っていても、会いたいと思うことだ。恋をするためには、「あなた」に恋する「私」がなくてはならない。しかし、「あなた」に恋するから「私」が生まれてくるとも言える。正村さんの「まだ会えていないあなた」は、会ったこともないのに、会いたいと思う人のようなものかもしれない。そんな「あなた」を歌おうとして、自己解体していくか、あらかじめ「会えないあなた」を作ってしまうのだと思う。

 私も、「あなた」というものがまだ不確かだが、最近少しづつわかる様な気がしてきた。「私」は、マトリョーシカの様な入れ子構造をしていて、「私」一人では「私は私を……」と自己解体していく。しかし「これ以上、マトリョーシカを開けたら、もう無しか残ってないかもしれない」という局面で、「私」を支える「あなた」を作る。その「あなた」は「私」でもあるが、主体からこぼれ落ちた、訳のわからないものでもある。その様にして、「私」から最も遠くと不可分なものを、「あなた」と呼ぶのではないだろうか。

 正村さんの今後として、山下先生は「あなたと出会うための、健全なナルシズム」を、舟橋さんは「他者と溶け合っていく鏡像」を作っていくことを課題とした。

 内藤さんの「無題」は、小説的観察眼に貫かれた情景の移行と平易な言葉で、母子関係を深く抉り取るような詩だった。島畑さんは、「内藤さんの詩風は過去を思い出す今の私によって支えられている」と、詩と小説の交差するところに、内藤さんの作品を位置付けた。

 舟橋さんは、「生活という自分には見えない領域が示唆され」「そこに自らを投げていくことで、未来に何かをつかむ」と、内藤さんの詩作を説明した。

 「生活」や「暮らし」は、内藤さんの詩に通底するものだ。これまでの詩も必ず「生活」を基盤として書かられている。しかし、内藤さんはその「生活」の中にいない。外部に立って「生活」の残滓を、詩の言葉に「置換」しているのだ。

 もちろん私も生活から浮遊し、外部に立って詩を書いている、と思う。その詩は、「あるべき生活」と姿を歌い、「現在の生活」を否認するだろう。しかし内藤さんにとっての詩は、自己の狂気から「生活」を守るものである。内藤さんは「詩を書き続けないと、自己のバランスが崩れてしまいかねない、ギリギリのところにいる」と、言っていた。「詩を書くことで、ケジメをつけている。詩を書いて変容し続ける自己と一緒に、〈あなた〉や周りも変わらなければならず、内藤さんが、その運動の渦の中心となってしまう。そこで狂気に陥らないためには、高村光太郎の様な厳しい倫理が必要である」と、山下先生は指摘した。おそらく、内藤さんの強さはそこからきているのだろう。

 「あなた」さえいればいいと「世界変革」するか、「あなた」といられる「生活」を作り守っていくか、いずれにしても私はまだ「あなた」が掴みきれていない。「あなた」と出会うため、私は何度でも詩の一行目に戻りたい。毎度詩を書くことで「あなた」を見つけ、この問いの前に立ったとき、答えは自ずから決まっているのだろう。「あなた」のかたちが道を示しているのだから。

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